大事なもの

もう、少し前のことになるけれど、weblog(ブログ)だとかtwitterとかが流行し出したときにまず思ったのは、poorなインフォメーションだなという印象だった。
大学の頃、個人的に「流行」のシミュレーション(Ising model)の研究をした。結果的には、形に残る成果は無かったけれど、人々の価値の伝播についての考察ができて楽しかった。
※その頃参照していたのは、貨幣の自成自壊シミュレーションやミームについて。


考察を踏まえると、poorなインフォメーションが生み出すのは短期・即時的で内容の軽いものであるから、そこで生み出されるものもそれぞれさっさと時が過ぎれば自壊していくという認識だった。
ここで新たにもうひとつ認識しておきたいのが、それらのpoorな伝達方法が自成自壊を繰り返しつつ、メディアを含めた占有率を増やしているということ。さらにミームで考えるとpoorがrichと結びつくと、有効な生き残り手段につながるから更に占有率を増やしていくという予測。


インフォメーションに関しての自分の印象を経済で例えれば、生の情報を必要とする地に足の付いた農業等の1次産業から製造業(2次産業)を経て、3次産業や一種のバブルに至ったというもの。
情報が必要とされているために生み出された情報、紙面があるから記事を書く。それ自体、必要とされていた情報が有効に回っている部分もあるだろうし、娯楽として新たに生み出されたものもあって、何れも悪くはない。


ただ、相対的に従来のインフォメーションが人々の意識から遠のいていってしまうのだろうなという予感。
この類のことは、いままでもいろんな人が言っていると思う。
私が改めて思うのは、文字が文化に入り込んだときに失われただろう非言語文化
などのように、失われていく従来のインフォメーションに対する自分の想い。
ほぼ毎年見続けている絵本の原画展では、POPで都会的な洗練された絵が殆どを占めてきているけれど、そんなんじゃなくて偏執的かもしれないけど独特な個性が見たい。
どこにいっても誰もが、ネットのどこかで見かけたような話をして、おんなじ様な対応をして、どこにいってもその類の話ね、この類の対応ねと、悪くはないが均質化したインフォメーションに閉じ込められてしまう傾向が進行し過ぎないといいのだけれど。


そう、そういう危惧を持っているから、
(必ずしもそのための時間は十分ではないけれど)
自分は自分で折に触れ大事なものをきちんと認識して、考えて過ごしていきたいのだなと、ふとそのように感じた年末年始。