一次情報、文字文化

共感覚者の驚くべき日常』P83には「考えるのをやめよ」とカンディンスキーさんの引用がされている。
大切なのは、自分の目で捉え感じ、そのものをそのまま・ありのまま経験するということか。
以前読んだ中沢新一さんの本で、シャーマンの弟子になったとき(チベットではなかったと思う)「おまえはなんでも言葉にしてしまう、意味にしてしまう」と指摘を受けている部分があった。物事を意味の枠組みから外して捉えることが、いかに難しいかまた大切かが感じられた。

上野 :つまりバ−バルなスキル以外にノンバ−バルなものって領域が広いじゃないですか。ビジュアルにしても、ア−トもそうですし、身体的なものにしても表現にしてもね。私にもし、そういうスキルや能力があれば本当はそういうものをあなた方に伝える事ができるかもしれないけれども、私はとことんバ−バルな人間なんです。それしか伝達できないわけですよ。ただ世の中には、バ−バルなものがノンバ−バルなものより上にあるかのごとき通念があるから、そういう事になっておりますがね。でも私が伝えることができるのは極めて限られた一つのスキルでしかないという気持ちはある。それを精魂こめて教えてあげればあげるほど、実は他の可能性を封殺しているかもしれない。そういう気持ちがある。

文字情報というのは既に加工された情報なんですよ。いっつも言ってたのはね、ファ−ストハンド・デ−タは一次情報でしょ。二次情報は英語でいうとセカンドハンド・デ−タというんですよ。人の頭をいっぺん通過した加工済みの情報なんですよ。セコハン・デ−タ、中古情報なんです。だから文字情報を相手にしている人間はセコハン・デ−タばっかり相手にしていることになるんですよ。他人の頭で加工されたものばかり相手にしている。文字情報を処理することに習熟していない子供逹に、文字情報をインプットすると苦痛なんですよね。頭がパンクするしね。「先生こんなん読まれへんわ。頭痛うなるわ」って言うんですよ。ああ、この子逹に苦痛を与えてはいけない。ただ私が思ったのはね、もしかしたら文字情報じゃないような種類の情報を処理するためのスキルを彼らに伝えることが、私にできていないんじゃないかと。

※ノンバーバルとは「非言語的な」という意味(詳しくは自分で調べてみてください)


ノンバーバルであっても、それがすぐ私の言いたい「そのまま・ありのまま経験」にはならない。いろいろな知識やラベル化によって、酷い場合はステレオタイプ化されたものは殆どの認識ステップを簡略化させてしまう。
ラベル化という簡略化によって認識の効率化は進むし、文字文化(ある種のラベル化)によって得られたものは大きい。
だけれど、人間の認知や生きている我々の感覚的な大きな部分、大切な部分が忘れられてしまっている可能性がないだろうか。だからこそ「考えるのをやめよ」「ありのままを経験せよ」が意味を持つのではないか。


はてな”で以下のような質問をさせてもらいました。
question:1104023825(ジプシー(ロマ)に関する話を教えてください。…)
またアンケートもあるので参考までに(ついでに)…。
ジプシー(ロマ)の職業をイメージで。

ロマ達は、文字を使わないで生きている者も多い。
音楽だけがロマではないけれど、彼等が文字に頼らず伝える音楽の奥深さと広がりは私たちにとって計り知れないものなのかもしれない。


文字文化以前の日本文化や、口承文学・口承音楽のケルトは忘れられた辺境に豊かな感覚文化を花開いていたのかもしれない。