後部硝子体出血

結局、左目は見えなくなった。
目の中が血でとても濁っている。強い光が(例えば陽の光とか)そこにあればぼやっと認識できるのだけれど。
眼球(視線)を動かしたり、頭が揺れると血の濁りがゆらゆらとゆれるのが最初は結構鬱陶しかった。


これはまだ濁りが薄く、眼の中に出血してくる様子や、周りがそれなりに見えていたときの話だ。
私は電車のシートに座っている。
都内の病院に向かっている。
動き出した電車のモーター音が、しだいに高くなって行く。
背後からさす陽の光は、床に落ちていて。向かいのシートに座っているサラリーマンの膝の高さまで、光がさしている。
パチパチと左目で見たり右目でみたり周りを観察してみる。
左目が濁ってみると、右目のクリアさが際立って感じられる。視力がいいほうではないけれど、それでも眼球が澄み切っているからサラリーマンの持っている鞄の黒い皮の質感だとか、スーツの生地とか無関心を装う表情とかがよく見える。
だけれど今度は濁った左目で見てみると、彼の背後の窓の外の様子や陽の落ちている明るい床がよく見える。陽の当たらない車内は窓枠やサラリーマンの頭の輪郭といった光との境以外は、減色して劣化していてよく見えない。
ゆらゆらとゆれる血液が重なっている。
こんなふうに自分だけの風景を見ていると、血の濁りを通して風景も悪くないなーなんて思ってしまう。
スーツの生地だとか無関心な表情とかそんなのはいらない自分にとって必要のないもの、それよりか光の落ちている床の汚れだとか、窓の外を流れていく光の風景のほうが拡大され重要、とそんなふうに思えてくる。
別に輪郭だけでいい、窓の枠や車内の様子、サラリーマンや学生は輪郭だけでいい、それがそこにあるだけでいい。そんな風に、極端に割り切って価値付けして見える。それがなにやらコントラストを極端に高めて細部を切り落とし余計なものは見えない、ある種映画の1シーンのように特異な魅力をもってくる。
右目で見たときとのあまりの落差に驚く。
たぶんきっと、人によってあるいは状況によって、同じようなクリアな眼球を通してみても風景は違った見え方になる。ある人はこの右眼のように外部を認識し、またある人はこの血で濁った左眼のようになにかの強烈な価値付けやバイアスを通して外部を認識しているんだ。


今見えているものや起こっていることがそのまま、前提条件なく同じ共通認識にはなりえないというのも陥りやすい盲点かもしれないなんて言って無理やりこじつけてみたりする。
http://www.hatena.ne.jp/1133418304
 
<追記>
硝子体手術等の経緯・経験に興味がある方はこちらからどうぞ
http://d.hatena.ne.jp/masasan/20060111