表現と癒し

いわゆる「癒し」のキーワードが嫌いだ。
なんでだろう。
たぶん「癒し」という言葉の乱発や、商業主義的な軽さが、自分にとっての「癒し」という言語的イメージが違うからかもしれない。
「あなたの言うそれは、少し心地よいという程度のものではありませんか?」
きっと、この時代この社会で起こっていることは確かに「心地よさ」ではなく「癒し」を求めているのかもしれない。だから見せかけの「癒し」を装った「心地よさ」では、いくらそれを積み重ねても癒されない。


今日、ピアノのミニコンサートに行った。ちょっとした演奏者の話なども交えて、数人の演奏で進行した。
演奏者の一人の女性は音大を卒業し、一旦は音楽関係の会社に勤め5年働き、その後再び演奏をはじめ10年ほど続けているとのことを話し出す。演奏をするときは、自分の中にイメージをしながら弾くんです。そんな話の中で「日本の社会の中では何かをイメージする機会が少ない」と言っていた。
確かに、自分の中にイメージを作ったりするのって、余裕がないとできない。
(自分の中の形にならない気持ちや感情を、言葉や文章や音楽にすること表現して形にすることは、癒しに繋がる。箱庭療法とまで言わなくても、日記を書いたり人と話をして心の中を表現していくことは癒しに繋がる)


この社会では癒しが必要となるのに、この社会ではなかなか癒しに繋がらない。