なにかとなにかのあいだ

「自分探し」と言う言葉がある。
近代思想では、「自分」という実体の探求から脱却し、「自分と誰か」「自分と何か」という関係性・文脈によってしか実体は説明できないとするものもある。


自分は何かと考えても結局そこに何も見つからなくて、誰かとの・何かとのやり取りでしか自分を知ることは出来ないのではないか?という疑い。


言うまでも無く、関係ってとても大事。
関係は、何かと何かの「あいだ」で発生する。
すごく話が飛ぶのだけれど、今の日本ってその「あいだ」に余裕や、バリエーションが少ないんじゃないかと思ったりする。
例えば、会社と自分の「あいだ」とか、ものと自分の「あいだ」とか、金銭的数値に単純に変換されてしまったりもして、たぶん江戸や平安の昔にはもっといろんな結びつきがあったんじゃないだろうか。
そういう金銭とか、すごく狭い範囲(強力だけど)のことを言いたいのではなくて。他にも、ものとものの「あいだ」にだって、いろんなイメージは膨らむ。


ようは「あいだ」は余裕であり隙間なんだと、言いたいのかな。
なにかの隙間を押し広げて、そこに自由でゆったりとした空間を作ってみてもいいんじゃないかなということ。
(この詩のようなものは、2003/07上旬に書きました)