こころ痛くても



 アナタはその人に心を開いていますか?
 それともその人に閉ざしていますか?




 この話は、ポーランドクラクフでの出来事である。クラクフは以前ポーランドの首都でもあった古都で、プラハクラクフ、ウィーンがある時期には中欧三大都市に数えられたこともある。
 本当はこんなこと書きたくないけれども。僕はその日、三度涙を流した。転々と中欧の国々を巡っていて三ヶ月弱が経っていて、その時の僕にはたまたま何かが重なったのかもしれない。広い空に小さく輝く太陽を見て歩き、強烈な風で上下する橋の真ん中で立ち止まる。風のやって来る上流側の手すりに両肘をつき橋の振幅の中で僕は、最初の涙をこぼした。それがその日の僕だ。
 もう一つ、本題に入る前に書いておかなくてはならない。一ヶ月ほど前に、ドイツのドレスデンで出会った鳴海さんとの話だ。鳴海さんは、三十代前半だから年齢は僕よりひとまわり高い。だけど、気さくな人だし僕も同年代の人間より年上の人と話したほうが落ち着く人間だから、とてもよくなじんだ。三日間僕らは同じ部屋に泊まり、話し込んでは連日寝るのは二時を過ぎていた。鳴海さんは地方新聞社から、兼ねてより希望だった全国紙への転職に成功して、短い人生の休暇を西欧の旅という形で残そうと、急ぎ足で廻っているとのことだった。確か二日目に話したことだ。いや、一日目だったかな、まあどちらでもよい。鳴海さんと二人で話をして、僕らが同感に達したことの一つに「日本語同士で話していても、違う言語より通じないことはある」ということ。ブラチスラバの道端で工事のおっちゃんと僕は話したけれども、ウィーンのYHで同室になった日本人二人より多く通じた。おっちゃんはスロバキア語と少しのドイツ語、僕は日本語と英語、片言のスロバキア語とドイツ語だから、つまり通じる単語は数えるほどしかなかった。余談だけど、旅の最終日の朝、オーストリアの朝、隣で食事をとってる日本人に話し掛けたら、「あなたの日本語がよく分からない」と言われた。後から思うに「オーストリアに居る彼」という世界を私がどうも壊したらしい、ちょっかい出して失礼したもう二度と会わないけどね。まあ、とにかくそういうことだ、共通言語が無い同士でも心を開いていれば通じるし、共通言語をもっていてもどちらかが心を閉じていれば通じない。
 自分の生活に関係する日本社会の中だと、ジッと心を閉じながら過ごしたり、仮に開いてみるとしても少しだけとか微妙なやり取りが多いけれども、一期一会の出会いでは開いてるか閉じてるか、ってのになる。警戒をしすぎると、その分しか楽しめない。だからって警戒するなと言っているわけじゃない。この話は警戒をやめたオバカな人の話だ。


 僕は、ダ・ビンチの『白テンを抱く貴婦人』の絵を見に美術館入った。目当ての絵が見当たらないから何処にあるの?と館員に尋ねる。
「今日本に行っているの御免なさいね」僕のことを日本人か確認して、ホントに残念ねとさらっと言った。
 預けていたバッグをクロークで受け取り。流し歩きしながら、さて余った時間をどうしようかと考えていた。時計をズボンの右ポケットから取り出し見ると四時前だ。まだ夕食には早いし、バスに乗って近くの山まで行くにはもう遅い。結構歩いたから疲れたなと考えていると、背の高い坊主頭の現地人が話してきた。
「あんた日本人かい?ワーオ、ファンタスティック。うちの父さんが三年前まで日本に仕事で行ってたんだよ。会社なんて言ったっけな」彼は子供のような声ではしゃぎながら、マシンガンのように英語で喋りかけてきた。とても話の調子が良いのでそれにあわせて、合いの手で返事を返していると本当にファンタスティックな気分に少しなった。その最初の感触から彼は話しなれた人間だなと僕は思う。多分、日本に行ってる親父さんの話とか作り話を交えて喋っているのかもしれないと思うけど、それに話を合わせると次から次へと言葉が出てくるので愉快だ。イバラシとカルベラは二人連れで歩いていたようだ、コーナを一つ曲がっても僕がついていってそのまま話していたからイバラシは僕をビールに誘った。
「何をしてたんだい?美術館行ってたのか、ワーオ」と坊主頭のイバラシはカルベラを見る「これから何か用事あるの、へー、ないんだったらちょっと一緒にビールでも飲んでいこうぜ」
 勿論こちらも、その積もりもあって彼らについていってるから「いいね、行こうか」と返事する。
 イバラシは体が大きいけれど少し躁状態っぽく素早く動き、話をしてくる。見知らぬ外国人に話し掛けることに慣れてるなと思う。
 チェコの田舎町でドイツ人二人組みにビールを奢ってもらったことや、クラクフの人間は日本人に興味を持っていると聞いていたこともあって、すぐ近くの店に男二人組と入るのに抵抗はなかった。
 店内は半地下で壁やカウンター、電飾は青系の色でまとめられ、少し宇宙っぽさがあり綺麗な造りだ。僕は窓を背にしてシンプルなデザインのパイプのスツールに座る。小さめの丸テーブルの表面は大理石柄だ。
 僕は、胸のポケットからメモとペンを出して名前を書いて交換する。よく喋るイバラシは長細く角張った輪郭をしていて髪の毛はスキンヘッドではないが丸めている。カルベラはウエーブのかかった髪形で厚めの服を着ている、イバラシ程には話すのがなれていない様子。
 どこから来たとか、どのくらい旅行をしてるのかとお約束の話をしてからポーランドはどうだいと聞かれる。
「まだ着いたばかりでポーランド人がまだ見分けられないくらいなんだよ」
「カルベラはイタリア人に見られることがあるんだぜ」とイバラシが言う。あまりよくわからない。
 よく分からないけど、イバラシは背の高さとか、顔の輪郭の角張り方とかポーランド人ぽい。カルベラと二人で「イバラシは典型的なポーランド人だよ」と言い合う。
 イバラシの父さんが仕事した日本企業の話をしたり、僕が字を書いてるときに「日本では四つのキャラクターがあるんだ、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットだよ」などと説明したりする。アルファベットを日本語の文字として入れたのは自虐的な皮肉を含んでるけど、まあそんなこと伝わらないしどうでもいい。会話はものすごいスピードで進み、僕もそれに倣う。相手が理解してるかしてないかは感じ取るだけでいい。とにかく頭に思いついた話を片っ端から口に出す、お互いに我先に主導的に話そうとする争いのテンポがとても楽しい。脳が興奮して面白い。
 イバラシが僕のメモを再び貸してくれと言うから渡す「住所と電話番号を書くんだ」と言う。
 その間、カルベラにポーランド語を少し確認する。簡単な挨拶はチェコ語の変化で対応できる。疑問詞なんかも割合近いけど「値段はいくらか?」というのはチェコ語と違うからなかなか覚え難い。
 ジョッキビールが三つ運ばれてくる。僕はジョッキに手をかけず、早速「これ幾らなんだ?」カルベラに確認する。
「100万ドルだよ」と言う。僕は一瞬沈黙する「ハハ値段はまだ知らんよ、奢るからそんなこと気にすんなって」とカルベラは付け足す。すこし気に、なる。
 イバラシが「おいもう一人で飲んじゃうぞ」とイバラシが何事か喋りまくる。
「ナズロラヴィエ」(乾杯の謂。チェコスロバキアポーランドはこの発音のちょっとした修正で通じる。同じスラブ圏だからね)ジョッキの上辺を当て、下辺を当て次に全体をガチンといわせる、そのままテーブルをジョッキで叩き素早く口に運ぶ。
 イバラシの書いたメモを見ると、住所と電話番号がかかれている。彼は一つ一つ、これがZIPコード、これがこの街の名前、だとか確認して身振りを交えて確認してくれる。顔の輪郭の割に丸っこい文字は、英語のアルファベットと少し違う。その文字や住所を確認してから「メールアドレスは持ってる?」と聞く。
「勿論だよ」と言ってメールアドレスを書き始める。
 カルベラは喋りはするが、イバラシや僕が話しを振ったりしたときにするくらいだ。この場に居ることをそれなりに楽しんでいるように見えたけど、少し寡黙な人なんだなと思った。寧ろ、イバラシが喋りすぎなんだろうと思う。どちらかと言うと、ちゃんとした友達になれるとしたらそれはカルベラとだと僕は思っている。
「Open my heart and Open your heart」その言葉を言いながら、イバラシは自分の胸をふわりと包み、次に僕に体を寄せ目を見つめ僕の胸に開いた五本の指で触れる。やさしく小声で聞く「楽しいかい?」「そうかい、俺も最高だよ」
「俺達最高の友達だよ。もし、泊まる所に困ったらいつでも家にくるといいよ。四月に日本に二、三週間遊びに行くかもしれないそのときは是非会おう」ここまで聞いて、はっきり言ってすこしコレは困るかなと僕は思う。日本人的感覚かも、と思う。
 イバラシの手元にある紙をみて、ふと「これはおかしいね。メールアドレスの形式が違うよ、ここには国名が必要だとおもうんだけど」と僕は言う。彼がどんな風に答えるのか観察する。確実に有効ではないアドレスだけど、それに対してなんて言うのか知りたかったのだ。
「大丈夫。ここの部分に書かれてるので届くんだ」と指し示す。
 僕は、ふーん、そうなのかな、と答えてその話を打ち切った。嘘をついてるのは確かだ。けど、それは彼らがお金を持っていないからメールアドレスを持っていなくて、かといって持っていないとは言えなくて無理にそう言っているのかもしれない。彼らの方もその話には消極的だった。
 僕は写真を撮ろう、と提案する。デジタルカメラをだして「いいかい?」と尋ねる。そう切り出して断られたのは初めてだった。
「ここは店のなかだよ。外に出てから撮ろう」とか「この店では写真はマズイ」とか言う。
 カルベラがカウンターからビールの追加を運んできて座る。500mlの大ジョッキが水のようにぐんぐんと消費されている。
 イバラシは僕に耳を貸して、と頭を近づけてくる「カルベラは、痩せていてあまり強そうじゃないだろ。だけど合気道やってたんだ、強いんだぜ」
 ユダヤ人街を歩いていた時、看板に合気道のポスターが貼ってあったのを数回みていた。
「カルベラほんとかい?」
「ああ、普段は使わないけどね」とカルベラ。
「奴は防御の時につかうんだ、優しい奴なんだよ」とイバラシ。
「そうか。今でも続けてる?どの位やってるんだい」
 カルベラは、今はもうやっていないんだ。一年くらい続けたんだ、でも今でもトレーニングを続けてるよ。大丈夫なんだ、一年でやりかたは分かったから、自分でトレーニングを続けてるんだ。
 一年でやり方は分かったなんてことはないだろ、と思うがそこは微笑む。
 イバラシは僕らの会話を聞いて、ニッコリ笑っている。「俺はムエタイやるんだ。三年やったよ、キックとパンチね」と身振りをつける。
 ちょっと対抗しようと思って「うん、柔道って知ってる?実は三年やってたんだ」と言う。ホントのことだ。三人で、強いなと笑いあう。分厚いガラスのジョッキを、力を込めて鳴らしあう。
 ジョッキを飲みきると「カルベラと腕相撲してみろよ」とイバラシが言う。イバラシは空いたジョッキをさげ、追加のビールを運んでくる。僕らはその間腕相撲を始めていて、結果僕が勝った。
「ちょっとトイレに行ってくるよ」と言って僕は席を立つ。トイレに入ると、僕はまず自分の財布を出してVISAカードやら国際キャッシュカードやらを靴の中敷きに隠す。彼らが幾つかの嘘をついていることは分かるし、僕に対して積極的であることの意図が何か明確には見えなかった。でも、飲んでいてとても楽しくて、旅で出会った人と話をして飲むことは心のそこから楽しんでる。彼らを信頼することと、自分自身の防御をすることは当然両立する。自分のすべき事をしてこそ、腹を割って付き合えるんじゃないだろうか。現金を確認すると、ドルと現地通貨合わせて\4000弱持っていた、三人分払っても十分お釣りがくる。
 席に戻ると、サッカーの話になった。僕は中田を知っているか?と聞く。しかしどうやら、ポーランドでは小野のほうが有名らしい。多分オランダリーグのTV中継があるのだろう。どうやら昨日辺り試合があったらしくイバラシとカルベラは、小野の動きを真似ている。それによると、小野はしばらくどこか空を見上げて、そして次の瞬間高度な技術と素早いボールさばきで物凄い上手いプレーを披露したらしい。
 イバラシは驚くほどビールを飲む。「楽しいな、心から楽しんでるかい」と言い。ジョッキを鳴らして、飲もう飲もうと言う。「アメリカは好きか?どこの国が好きだい?」と聞いてくる。イバラシのTシャツには大きくUSAとプリントされている。
「残念ながら、アメリカはあんまり好きじゃないんだ。外国に来ても、自分達が一番だって顔しながら歩いて、当たり前のように英語で話すだろ」ヨーロッパでは僕は、大体こういう風に言った。ヨーロッパの人々は自国語をとても大切にしているから、そんな中で日本人が嬉々として英語を話しているのが複雑なのだけど。イバラシはそのTシャツからすると、多分アメリカが好きなのかもしれない。だから一言シャツの文字をなぞりながら「ゴメンよ」と付け足す。やっとEU加盟をした旧東欧圏の国々の人にとっては第一の国力、経済力を持つアメリカは憧れなのだろう。身近にある国ではない、つまりドイツやロシアとの関係のような歴史的な軋轢がないこともあるかもしれない。特にポーランドは政策上、アメリカとの軍事的な繋がりもあったように思う。
ポーランドはとてもいい国だよ」と僕は、まず言う。
 僕のそれまでの旅程のなかで一番気に入ったのは、やっぱりドイツだった。しかし、ポーランドは勿論、チェコやその他の隣国は、ドイツを憎んでいる面が確かにある。戦前から強国であるドイツに反感を持つ文化的なもの、スラブ民族ゲルマン民族の構図もあるだろう。第二次大戦で侵略され戦後は経済的に蹂躙されている。憎みながらも、商売上ドイツ語を喋らざるをえない人々がいる。
 僕は口篭もって、自分の言葉を言おう、思うことを正直に言おうとしている。その間に自分の目から涙が頬を伝って、ぽたぽたと垂れているのを感じる。
「ドイツが一番好きなんだ」僕はその涙以外は普段と変わらない様子で、寧ろ微笑んで言った筈だ。
 今になっても何でまた、僕は涙してしまったのかハッキリとは解からない。
 イバラシは一瞬戸惑っていて、カルベラは手首を袖の中に引っ込めて長袖を掴み僕の涙を拭ってくれた。僕は正直言って、カルベラの行為に驚いてそしてとっても嬉しかった。
 しばらく待って、イバラシはビールを持たせて乾杯をする。僕の首に腕を回しおでこを擦り付ける「楽しんでるかい?」
「ああ、とっても楽しいよ」そう応える。そして「乾杯しようと」言う。元の雰囲気に戻そうと努める。まあ、でも悪くなことだ、上っ面を舐めるだけよりは、そう思う。
 なにやら話をまた続けて、イバラシはまたビールをお代わりしに席を立つ。
「あいつは、心底、強烈な酒のみだ!」と言い合い目線を交わす。
 カルベラがトイレに行き、イバラシがジョッキを三杯持って帰ってくる。ビールを飲み、カルベラが帰ってくるころ「カルベラはクレバーだ」とイバラシが耳打ちしてくる「カルベラの父さんは、イタリアのフィクサーって会社の重役なんだよ、知ってるかフィクサー?」
「うん、カルベラは賢いと思うよ、あまり喋らないけど解かるよ。フィクサーって会社は知らないけどね」なに俺のこと話してるんだ、とカルベラが入ってくる。
 また暫く、そのフィクサーについてどんな会社なのか聞いたりする。
 僕は二回目のトイレに行く。トイレの中で、彼等を少しでも疑ってしまった事を後ろめたくも思う。
「カルベラが二人で話したいってさ」僕がトイレから出て入れ替わるときにイバラシが言う。
 カルベラの話は、特にコレといったものではなかった。或いは、カルベラにもう少し話をさせようとのイバラシの気持ちで、言葉が勝手に作られたのかもしれない。それとも、カルベラの話への助走が長すぎて本筋に入る前にイバラシが帰ってきたのかもしれない。なんだかそういう不器用そうなところに、親近感を覚えたりもする。
 カルベラの袖で拭ってもらってしまってから、僕等は目線で会話することが、少し出来るようになった。やっぱり一般的に、余り言葉を喋らない人には、少し距離をとってしまう。カルベラとも距離をとっていたし、カルベラの方でもとっていたと思う。二人きりになると言葉を捜してしまうような、少し気詰まりな状況になってしまっただろう。だけど今は、いつも僕が自分の周りにまとっている自由で落ち着いた空気感に近づいたように感じる。それはイバラシと話しているときの、愉快で身近な空気感とも違う。
 イバラシ話は、フィクサーの重役の話から、イバラシの顔の広さ友人の多さに移る。ドイツと取り引きしている会社の社長と親密で、色んな事を教えてもらったりしているとか、友人は200人居るとか主張する。話半分に割り引いて聞いているけど、イバラシの話し振りからすると、多少の真実は混じっているのかもしれないと思ったりする。200人の友人なんて言葉は、日本の高校生の言葉に毛が生えたみたいで少し微笑ましい。なにより、自分は、普段積極的に話をする人間じゃないから、イバラシのような人がどんな交友関係を持つものなのかあまり想像できないのだ。カルベラが頷きながら「(イバラシの友人は)グレイトだ」と呟くと、そんなものかななどと思ったりする。
 話を、フーンと思いつつ聞いていて、なんでそういう話をするのかなと頭の隅で考える。日本人の自分とも今後連絡をつけていきたいということだろうか。どうもピンとこない。
 イバラシは、続けてドイツ関連の会社の社長との関係を話していく。相手にちょっと変わった印象を与えるとしても、話をどんどん展開していくこの能力は凄いなと思う。まるで、自分の乗っている自転車を程よく引っ張ってもらっているようだ。自分がペダルを漕がなくても進むけど、漕ぐと普段では考えられない程スピードが出る。そのスピードが心地よくてついつい普段使わないものまで使ってしまう。
 会社でのキャッシュフローの話などをしていて、金額を言ったり紙に書いたりしてくれるが、まだ地元通貨感覚が身についていないのでよく分からない。イバラシが「日本では給料、月にどの位、貰えるんだ?」と聞く。自分の給料は言わないけど、大体平均ではこのくらいと換算してみた。イバラシが例のドイツ社長との間で交わすと言った金額より三割ほど少ない。その換算数値に思ったほど、二人は感心を持たず「それで暮らしていくのは簡単なのか?」とカルベラは聞く。「日本は、生活必需品の物価が高くて結構、大変なんだよ。カメラみたいに必需じゃないものは、安いんだけどね。こっちに来てもうすっからかんさ」と身振りを交えて笑いながら答える。
 イバラシは財布の中身を僕に見せ、俺なんか今コレしか持ってないぜと笑う。大体、今日のように飲んだら二三回で無くなってしまう位の金額だろう。それじゃ、カルベラはどの位持ってるんだなどとの話しになり「よし、テーブルの上に財布を出すぞ」とイバラシは言い。カルベラはイバラシの財布の上に重ねる。「俺達は友達だから、隠し事は無いぞ」とイバラシは言う。それとコレは違うだろと思いつつ、また彼らは僕の金を狙っているかいないかかは半々だなと思ったりする。でも、異国の地で見知らぬ人と酒を飲み、財布を見せ合うというのは面白い出来事でもあると思った。何より既に僕はお金とキャッシュカードを抜いているし、万一彼らが金目当てでないとしたら貴重な体験だろうと思った。
 僕は、財布を彼らの二つの財布の上に重ねた。日本人と、ポーランド人の若者三人の囲む丸テーブルの中心には財布がポンと積まれている。日本じゃこんなことあり得ない。僕の財布にはどうせ三人分の飲み代程度しか入っていない、それ全部使って奢ったっていい。愉快な気持ちだ。
 カルベラの財布には高額紙幣がまとまって入っていた。僕の財布の話題は米ドルで、彼らは20ドル札だよと言っては楽しんでいた。


 その頃には、かなりビールが効いてきていて全てを覚えてる訳じゃない。スロバキアのスーパーで買ったピスタチオの残りがテーブル皿にあけられている。パチリパチリと皮をむく音を立ててイバラシが食べていて、僕らは何かを話続けている。


 ピスタチオの皿が殻だけになって暫くすると、そろそろ店を出ようという話になる。僕はお金を出そうとするが、いやココはカルベラが払うんだと言って聞かない。「カルベラが払うと約束しただろ」イバラシに連れられ先に外に出されてしまった。
 店に入ったのは午後四時前だったから明るかったが、外はすでに暗く大体六時過ぎから七時前位の時間帯だったと思う。日本より緯度の高いポーランドでは、日の入りが早い。空は真っ暗で、町の中心の市庁舎或いは近くの古風な電灯からのオレンジ色が僕たちを照らしている。
 イバラシは「じゃあ次はどこに行く?腹ごしらえに行くか」と言ってくる。
「いや、まさか!お腹いっぱいだよ」全く信じられない。イバラシだってあれだけ飲んだのだから普通食べに行きたくはないだろう。僕はジョッキ五杯だったけど、彼は僕より一、二杯多かった筈だ。つまり彼はビールを三リットルは飲んでいる。
 しかし彼は、執拗に「さっき夕飯を一緒に食べに行くと言ったじゃないか」「約束したのに、守らないのか」と激しく問い正してくる。彼の態度を見つめる。その時点になって、今日のこの出来事が解決し、結果と彼らの意向を確信した。アルコールのせいかもしれない、僕はまた急激に悲しい気持ちになって数滴涙を道に落とした。
 でも今度はカルベラが出てくるまでにはまともになった。自分の素直な気持ちの表情ではなく、その場ですべき表情という仮面をつけるということがまともだとして。
 とりあえず会計のお礼を言う。
 イバラシは続ける「約束を守らないのか。守らないなら、僕たちは良い友達じゃないぞ、悪い友達なんだぞ」「とにかく次の店に行こうじゃないか」「金がないって?なら泊まっているところまで付き合うからカードを取ってこよう」「お腹がすいているんだ、一緒に食べるって約束しただろ」
 僕は、黙っている。わかってもいたのに今日の出来事が終わってしまったことで、悲しくなってしまう。口数は少なくなる、イバラシの言葉に対する最低限の判断と応答。イバラシの変わらぬ調子の言葉をさっきまでとは違う自分で聞いている、判断している。
「おまえは、悪い友達だ!」さっきビールを飲みながら、心を開けと手のひらで包んだ僕の胸のあたりを、今度はオレンジ色の街頭の影の中で、人差し指で突きつける。
 僕のある部分は、僕を含めたその状況に興味を抱いていて、こんなときにカルベラはどうしてるのだろうかと思ったり、イバラシの喋る内容をしっかりと聞いている。カルベラは、イバラシの脇から広い歩道を壁際まで遠ざかり僕らを見てる。イバラシの言うことが本当に全く逆転してしまったことに、可笑しさを感じる。
 今思うとその可笑しさは結局、彼の変節を上手く受け入れられないことに関する軽い拒絶だったのだろう。それだけ僕は彼の話を楽しんで心を分かち合っている積もりだったのだ。
 イバラシは、カルベラの出したビールの代金を払えと言ってくる。聞いてもいないのに「夕飯を食べに行くと約束したから、カルベラはおごったんだ。夕食を食べに行かないなら悪い友達だからビールの代金を払え」と言う。
 幾らかと聞くとやはり、三人分の料金より更に高いだろうと思われる金額を言ってくる。僕は「じゃあ、ビールは一杯いくらだったんだ、チェックを見せろ」「捨てたなら、今から店に一緒に行こう」と体を捕まえて店に向かおうとすると、イバラシは体を離し、カルベラは更に遠ざかった。僕は、もうそれで十分だったから、店にはそのまま行かなかった。代わりに自分の気持ちを伝えようと思う。自分の気持ちをどう英語で表現したらいいのか考えるけど、思いつかない。もっと英語が出来ればよかった、と後悔した。伝える事をあきらめて、財布の中からポーランドの紙幣を全て渡した。「これで全部だよ」
「コレじゃ足りない、ドルも持っていただろ」
 イバラシの何か焦ったような顔やゆらゆらと落ち着きなく揺れる動作を見ていると、何か上手く表せない思いなのか感情なのかそういうものがこみ上げてくる。言葉を捜すけど、僕の中の海底に沈んでいるはずの言葉はその欠片すら見当たらない。僕は改めて日本語で言葉を捜したのに、それでも自分の気持ちを表現する言葉が見当たらなかった。だから何も言えず、20ドル札を渡す。
 イバラシは受け取ると後ろ歩きにさがりつつ、僕を何度も指差しつつ「You are bad friend! No good! Bad friend!」と力を込めて言った。僕は彼等に大声で何かを言いたかった。英語でも日本語でもいい。自分の気持ちを伝えたかった。でもその気持ちが自分でよく分からなかった。
 カルベラの姿はすでになかった。
 僕はそのままライトアップされた城郭や歴史ある大学を横目に歩き20分ほどかけてYHにたどり着き、ベッドに腰掛け、酔った頭で出来事を振り返る。暫くして、そのまま体をベッドに横たえ深い眠りについた。

 今振り返ると、ドイツを語るときに僕が流してしまった涙は何だったろうか。
 チェコのテレジーンやポーランドアウシュビッツにあるように第二次大戦に対する強い記憶を、周辺国に残すドイツ人。精巧なモノを作る職人気質、日本人をまともに扱う人々。ドイツの音楽、哲学。
 過去ポーランドに辛酸以上のものを舐めさせてしまったドイツだが、僕は好きだ。だけど、僕が君たちの友達でもいいだろうか?そのような気持ちだっただろう。隠し事をオブラートに包んで「ポーランドが好きだ」とだけ言うほうが簡単だったけど、僕は自分の気持ちを正直に「ドイツが好きだ」と伝えたかった。
 本当の気持ちを、言おうとするとき僕らはただ無防備で無力になってしまうのかもしれない。本当の自分を受け入れてもらえることができるか不安で心細いのかもしれない。いつもは被っている仮面を脱いで、次の道を開こうという気持ち覚悟なのかもしれない。
 ドイツ以外の各国でアジア人として蔑まれ日本人として馬鹿にされた反動かもしれないし、本当の気持ちを隠していてはその場が作り事の価値しか持たないと思ったからかもしれない。つまり何かの価値をその出会いに求めていたのだろう。


 表面的には少し気取ってはいたのだろうけど、僕は心を開いて打ち解けていたのだ。
 楽しかった。
 だからこそ僕は惨め。それと、悲しい。
 カルベラが足早に帰ってしまったのは、僕たちの周りの空気が変わってしまったからだろうか。
 イバラシの「Bad friend」と言った単語の意味はなんなのか。「友達じゃない」ではなく「悪い友達」と言ったところに意味はあるだろうか。
 イバラシは僕と話をしていた時、まったくつまらなかったと言い切れるだろうか。
 結局のところ、僕は金を取られ、その金額は日本では一回の飲み代。
 そんな、僕にとっては詰まらないもののために、彼らは僕たちで過ごした時と引き換えに金をとった。つまり、詰まらない金額より僕たちの過ごした時間は更にくだらないものだったのか?


 涙を袖で拭いてくれた人がいるのを覚えているし、ピスタチオが調子よく割れていく音も覚えている。
 実を言えば彼らの名前は本物じゃない。カルベラが僕のメモを見せてくれと言ったとき僕はもちろんOKした。そのときに、手がかりになるものをすべて千切りとったのだと思う。
 僕は彼らの名前をもう覚えていない。


 心を開くと、いっぱい感じるのだろう。泣いたり気に入ったり好きになったり。
 これが最後彼等に大声で言いたかった気持ちの姿を変えたもの。今になってそう思う。