零の旋律

私は、朝階段を登っている。
登りながら音楽を聴いてる。
パッヘルベルのカノン〜Pachelbel: Canon In D


私はカノンが大好き。
よく聞いていたCanon In Dはパイヤール室内管弦楽団(Paillard:Jean-Francois)のもので、多分胎教なんかの時から聴いていた。初めて別の楽団のCanon In Dを聴いた時は非常な違和感を感じた程だった。
よかったら、下の画像リンク辿ってアマゾンで試聴できるのでどうぞ。
Canon / Concerto for Trumpet
で、他の楽団の聴いたのは高校くらいじゃないかと思うのだけどその後色々聴いてみる。
日本のPOPSでモロにカノンにかぶせているのは、有名どころでも20曲をくだらないし、コード進行で考えると数えきれない程。
ネットでも結構いろんなCanon In Dを集めることができる。


中学生の頃。
私は死にたくて、ベットでピクリとも動かない。エンドレスのカノンを流しながら、ずっとずっと横たわっている。
なんか暗いかな。でも別にそれはいたって普通に自然なことだった。
自分の中で、死は暗いものではないし疎むべきものでもない。
このendlessのcanonの中で死ねたらなんて幸福なのだろう、と。


村上春樹さんの小説の中で

「生は死の対極としてではなく、その一部として存在している」

という一説がある。私はそれはピタっとはこなくて、でもこの人はこの表現でせざるを得なかったのだろうと思った。
自分にとって生のイメージは、死(無生物)というまっすぐな数直線上に乗っかっている線分みたいなもので、あるとき始まりそして時間の直線を進むとまたもとの直線に戻る。高さ零の無生物の状態に戻る。
つまり彼の言おうとしていることは実感の体感としての生で、私は理解手段としてのイメージの生が強いのかな。というより体感としての"主観的感覚"を遠ざけていたのかもしれない。
私は、特に20歳の頃まで"無生物的"であるとか"絶対客観"なんてものに指向していたから、"自分ひとりの"とか"具体的な"ものより抽象的なものが好きだった。だから、数学的なイメージなのかもしれない。
そういう訳で、私にとっては今でも死は"零の高さ"への回帰で、死んだ状態とは"零の高さ"の時間進行のイメージ。


Pachelbel Canon In Dに、"零の高さ"つまり零の旋律を感じていたし、今でも感じる。
前回の文章を書いた後に思ったのだけれど、旅行に行ったり働く場所が変ったりそんな環境の変化が起こった時に、自分の位置を確認しておこうという気持ちが無意識に働くのかもしれない。
だから、
自分の昔のメモをみつけて、不意に自分の中に落ちていったり
朝長い階段を登っている時、零の旋律を感じたり
するんじゃないかなと思う。