クリスマスの話を あなたに

今日は、歳も暮れ行く静かな休日です。
今朝、テレビでチェロ曲を聞きました。
クリスマスが近いなと感じつつ、バッハ大先生の『主よ人の望みの喜びよ』が自然にリフレインしています。


以前話をしたことあるかな、東欧を旅行したときにとある村に泊めてもらってそこのお父さんに宗教について聞かれたこと。
時期は丁度年末で、他の村ではベツレヘムの儀式を見てきたりしていたんだ。ベツレヘムっていうのは、キリストの生まれた場所の地名で、東ヨーロッパで主流の東方正教系ではたぶん、クリスマスというよりベツレヘムの方がとおりがいいのかな。
ベツレヘムは日本のクリスマスのような華やいだ雰囲気ではなくて、全体に落ち着いた宗教行事の雰囲気なんだよね。儀式の中には他宗教者や無宗教者へ過激と思える部分もあったりするんだけど。
話は戻って、泊めてもらったお父さんに宗教を聞かれたとき、僕はそのお父さんの人柄や話し振りが好きだったし、うそやゴマカシで答えたくなくて、一晩考えたんだよねなんて答えればいいだろうって。僕は、基本的に無宗教だけれど、宗教を否定的には考えていなくて、でも、言葉も不自由だからどう表現したらいいだろうかって、辞書とにらめっこしてね。


僕は、バッハの曲が好きです。
彼の音楽や声楽はやはり宗教を抜きには考えられないんだけれど、というよりそのものだから。だけど、僕は彼の音楽が好きだし、沢山の人が好きだろうと思う。


宗教の違いというのは信じるものの違いで価値観の違いで、いろいろ対立してぶつかるんだけど、ぶつかる為に信じている訳じゃない。
僕らに弱い部分があって、或いは苦しいことがあって、自分ひとりだけでは寂しくて、誰か傍にいて見守ってくれる何かを求める気持ちがあって、またはそれに気づくことがあって、だから人それぞれのところから何かを求めるんだと思う。それはすごく自然な気持ちだと思うし、昔からそうして生きてきたんだと思う。
「僕らは信じるものが違うかもしれない、けれど
なにかを信じる、何かを信じたいという僕達の気持ち、それは同じだと思う」
僕は、そうやって、その親切なお父さんに伝えました。


親切なお父さんは慎み深い人で、一種の「慎み」って信仰と組になっているように思う。
慎みは、厳粛さとか自分のことをわきまえるとか、自分の不相応な発露を自然に相応なものとすることなのかな。それとも、相応もなにもいろいろな制約をして無私までを指すのかな、わからないけれど。
何かを信じることは、何かの制約の上に成り立つのが自然な気がする。
調和という言葉があるけれど、調和のためには制約が必要なのかもしれない。それぞれが勝手なことをしていたり、言っていたりすると調和しないから。
バッハの音楽は、ひとつひとつの音が相応しく並び、そして信じ、そして調和していて、とっても綺麗だよね。


あなたに何を伝えればいいのか、自分でもわからなくなっちゃったけれど、今自分が感じていることはそんなことです。